もしも…

もしもあのとき夫が「録画しろ」なんて言わなかったら…夫と息子がミニ四駆にはまらなかったら…そもそも息子がプラモデル好きでなかったら…子どもが男の子じゃなくて女の子だったら…そもそも子どもがいなかったら…私がレツゴーにめぐり合うことはなかったろう…。

もしも監督がアミノテツローでなかったら…キャラデザインが高見明男でなかったら…声が渕崎さんでなかったら…私が男の子2人兄弟の母でなかったら…私が烈くんとレツゴーにハマることもなかったろう…。

どの条件が欠けても、今の私はここにいなかった。そう思うと不思議な感じだ。仮に知り合いにレツゴーファンがいて、すすめられたとしても見ようとはしなかったと思う。子ども向けのアニメをいい歳した大人が貴重な時間をさいてまで見なければならない理由は何処にもないからである。正直なところ、大人は、母親は、そんなことをしていられるほど暇ではないのだ。今でも息子らは毎日様々なアニメを見ている。私も見るともなしに一緒に見てはいるが、夕飯の仕度を放り出してまでテレビの前に座らせてくれるほど「見たい」と思わせてくれる作品は見当たらない。それを思うとレツゴーという作品がいかに並外れて魅力的だったのか改めて思い知らされる。

私にとって何より幸せだったのは、この作品をリアルタイムで2年かけて見られたことである。これは子どもの成長を描いたドラマだった。それも少しずつ変化していく子どもたちの様子を、実際の子どもが成長するのと同じペースでじっくり描いてくれた。だから2年たって第1話をふり返ると、キャラたちが別人のように成長しているのに驚く。子どもの成長はその最中には見えない。年月が経って初めて気付くものだ。こういう描き方をしてくれる作品自体が非常に珍しい。特に烈サイドのレツゴーは児童文学に匹敵するレベルを持っていたと思う。

作品の考え方が私と合っていたのも好きになった一因かもしれない。烈くんにここまでひかれたのは、単に「かっこいい、かわいい、絵と性格がツボ」以外に、生き様に共感する部分があったからだろうと思う。烈くんの「好きなことへのこだわり」が好きだ。烈くんの持っている「心地よい緊張感」が好きだ。勝ちを狙って取りに行く烈くんの姿勢が好きだ。漫然と走るだけでは本当の「楽しみ」は得られない。勝負の楽しみとは「先を読み計算して勝負を仕掛ける瞬間」にこそある。「自分の走り」を大切にする烈くんが好きだ。「自分」で勝負できて初めて結果がどうあろうと「それでいい」と思えるものだから。

烈くんに出会って私もまた走りたくなった。そんな折、漫研の後輩の企画に参加できるチャンスを得た。10頁描くのに3ヶ月かかったが、やはり「自分を走らせる」のはいいと感じた。マイペースでいい。生涯自分を走らせていきたい。ゴールはまだ見えないから。

2001年春。私も再び走りはじめる。
人は皆それぞれの道を走りつづけるレーサー。


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