[SUPER 観た?観た!資料館]
-67~69頁-

土屋は子ども達の自由にさせるし、大神は自分の敷いたレールの上を走って欲しい、二人の差はその辺にあって、同時にこの作品のカラーでもあるんですけど。

~アニメージュvol.219 68頁 アミノ監督の談話より引用~

< 掲載内容 >

  • アミノ監督のインタビュー
  • SGJC編後半の新オープニングの紙上再録(40カット分)
  • SGJC編後編の見所ポイント2点
  • ミニ四駆道第1回大人げないレース

TAEKOの選ぶアミノ監督の気になる一言
  • 子どもの視点で作ってます。
  • 物を作っていると、テーマや何かを「語らせ」たくなるじゃないですか。語りの部分をグッと抑えたり、「やるっきゃない」という一言で済ますのがレッツ&ゴーの世界なんでしょうね。
  • 物の価値観なんかは子ども達が集まって、互いになんとなく形成されてゆくものじゃないかな。そういう意味では道は敷かれてはいないという事ですね。
  • 大神は、今のところ悪の代表みたいになっているけれど、実際にはミニ四駆に正義も悪もないでしょう。
  • (烈と豪は)自分の欲求に忠実に従ってレースをしてゆく。(中略)別に正義の味方じゃないんです。
  • 新しいOPには(中略)今後の展開なんかも多少入っていますので、よく見て下さいね。


★レビューと考察★


私がこの号を購入した直接の動機は、もちろん高見烈様カット絵のためである。しかし後で見直してみると、アミノ監督のインタビューが載っている貴重な号だった。

SGJC編のテーマは、ずばり「大人を乗り越える子ども達」である。子ども向けにはミニ四駆レースものとしての面白さを提供しながら、その背景では密かにこのテーマが進行している。これは実は1話~51話まで通して見ないと見えてこないアミノ監督の仕掛けである。

冒頭の引用が全てを物語っていると思うが、原作では「正義と悪」だった土屋博士と大神博士を、アミノ監督は「子どもの自主性を尊重する大人としない大人」へと昇華させた。このことがアニメ版レツゴーを、単純な勧善懲悪ものから複雑で奥の深いドラマ性のある作品へと引き上げた。だが1話1話を見る限りでは、このようなことは全く感じさせないのだから見事である。

「子どもの視点」
この作品ではキャラやその他に細かい設定を行っていない。たとえばJの出生の謎とか、リョウの親はどうしたとか、学校へ行っているのかとか、そんなことはあっさり無視されている。だが子どもの視点からみればそれで正解なのだ。子どもは友達の親が誰かとか生活の環境がどうだとかなどということは気にしないものである。友達と遊んでいる、その瞬間こそが全てなのだから。子どもの目にみえないことは設定しなくてよい。その思い切りのよさが伸び伸びした子どもの世界を描くことを成功させている。

「語らないこども達」
台詞で説明するのではなく、あくまで行動で表現する。相手を言葉で説得して改心させるのではなく、自分の走りを貫くことで心を開かせていく。語りの部分を抑えた結果、かえって説得力が生まれ、生き生きとした芝居で魅せる作品に仕上がった。

「物の価値観」「道は敷かれてはいない」「正義と悪」
これはこうである、と決めつけないで多様な価値観を認める。それが正義と悪の概念も取り払う。そこに一面的でない広がりのある世界が構築される。それを最もよく体現しているのが烈ではないだろうか。「冷静」と「熱血」、「堅実」と「勝負師」、一見相反する2つの面をその内側に両立させたキャラ。彼こそがアミノレツゴーのテーマそのものだったと感じているのは私だけだろうか。

「新しいオープニング」
この新オープニングには監督の見て欲しい?「今後の展開」が入っているそうです。さて、それはどこでしょう? 私が感想の26話で 感じた疑問はこれと何か関係があるのだろうか?


ところで。実はこの後、もう1回アニメージュはレツゴーを「観た?観た!倶楽部」で取り上げます。豪がマグナムを破壊される37話です。しかし、烈くんのカットが1枚も載っていないという理由で買わなかったんですよね。今思えば買っておくべきだった~と後悔しきりですが、そういう事情のため、それが何号だったのかは分かりません。立ち読みした記憶に頼る限りでは特に烈くんに関する記事もなかった(それは今号もそうなのだが)ようです。しかし37話を取り上げるなら45話も取り上げてほしかったと思ったのは私だけでしょうか…。


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