レツゴー日記ラスト(102話)の解釈に関してはアニメージュ1998年3月号で簡単に言及済みなのですが、それだけでは分かりにくい場合もあるようなので、より詳細な補足頁を設けてみました。

なお、この頁はレツゴー日記を読まれて疑問を感じられた方への回答ですので、レツゴーWGPを未見およびレツゴー日記WGP編を未読の場合、内容が理解できないところがあると思います。レツゴー日記を先に全部読まれてからご覧下さい。

(前略)だが、ともするとスピードのみに陥りそうなレースを変えたのは、ビクトリーズだった。(中略)勝ち負けではなく、心の底から一人のミニ四レーサーとして楽しんで走る彼らの姿に、レーサーたちは自分にもそんな瞬間があったのを思い出す。ミハエルはマシンと共に走ることに気づき、カルロはゴールの瞬間、冷たい仮面を捨てて喜びを露わにする。そして、最後はみんながビクトリーズになった。もちろん、烈や豪たちと一緒に走り続けてきたテレビの前の僕たちもいっしょに。

~アニメージュvol.237 47頁 アニメージュスタッフのコメントより引用 ~

(前略)「主人公は変わらない」というのをやりたかったんです。途中でキャラクターたちが、それぞれ悩んだりするのがあるんですけど、それはキャラクターの幅の中で揺れてるだけで、結局何も変わらない。じゃあ、何が変わってゆくかというと、関わってきた人間がみんな変わってゆく。

~アニメージュvol.237 47頁 加戸監督の談話より引用 ~

引用が一部重複しているところがありますが、ご了承下さい。

最後はみんながビクトリーズになった
説明するまでもなく、この部分がレツゴー日記102話の解釈『そして今、全員が「烈」になる』の下敷きになっています。この部分を烈視点から自分の言葉で表現してみたものが当サイトのレツゴー日記です。
烈の部分が「」でくくられていることに注目。この「烈」はもちろん「レツゴーの提唱するミニ四レーサー魂」の意味で使っており、アニメージュの引用にある「ビクトリーズ」とも同義です。烈視点から話をまとめるというサイトの趣旨にのっとって、「烈」と「レツゴーのテーマ」と「ビクトリーズ」をひっかけて使用していたわけです。

では「みんながビクトリーズになる」とはどういうことなのでしょう?
これは皆が「レツゴーの提唱してきたミニ四レーサー魂」、すなわち「レツゴーのテーマ」へと帰結できたことを文学的に表現したものですね。
初めてこのフレーズを読んだ時は感動しました。ああ、そうだったのか、レツゴーがWGPが言いたかったことって、こういうことだったのか、なんて見事にまとめてくれたのだろう、アニメージュ、と。
そしてこのフレーズはもちろん、加戸監督のインタビューの内容を受けた上でのものなのも間違いないと思います。

主人公は変わらない
MAXのインタビューでも繰り返し主張されていた言葉なので、加戸監督がレツゴーを作るにあたって最も大切にされていた部分なのではないかと思います。このインタビューの続きの一部はこちらでも引用していますので、ご覧下さい。つまり、主人公のやっていることが(それも押し付けではなく自然に)皆に影響を与え、最後は「変わらない主人公(=レツゴーのテーマ)」へと全員が帰結していく物語になっていた、ということなのですね。つまり、主人公のありかたそのものがテーマになっていたのだと見ることができると思います。言い換えると、主人公を知ることがテーマを知ることへつながる、ということになると思います。

ここで言う主人公とはもちろん烈と豪のことですね。引用部分のキャラクターたちが、それぞれ悩んだりするは烈の場合だと92~95話を指しているのは明らかだと思います。豪の場合、そのようなシーンがあったかな?と思うのですが、勝負よりロッソのことばかり気にしていた時期(70話~85話?)のことかなと思います。同時期に発売されたアニメディア3月号とはまた少し違うインタビュー内容なので、出来るだけ多くの資料との突き合わせを行わないと考察も偏るおそれがあるなあと思います。

主人公視点で見ることの意味
だけどよく考えてみれば、主人公のやることに周りが影響を受けて敵も最後は主人公側に帰結する、というのは物語の作りとしては別に珍しいものではなく、むしろ普遍的でよくあるパターンじゃないでしょうか。特に少年向けドラマでは昔から繰り返し使われてきた典型的な王道パターンだと言えるのではないでしょうか。

レツゴーは魅力的なキャラが多かったため、主人公以外のキャラを中心に見ていた人もおられたと思います。それはそれでいいと思います。キャラを楽しむのも作品の楽しみ方の1つですから。
しかし、「キャラ」ではなく「物語」を見ようとした場合。物語の核となっていてテーマを背負っているのは主人公ですから、主人公を無視した状態で解釈するのはさすがに無理があるんじゃないかと思います。私はたまたま感情移入した先が主人公だったため、烈を見ることで物語のテーマへも行きつくことができました。主人公視点で見るということは、「物語を見る」ことにもなるわけです。

主人公としての烈の役割
烈はキャラ単体でも楽しめる魅力を持っていますが、同時に主人公としての役割も背負っています。原作の主人公は豪ですが(そのため原作では豪主体で見ると話が分かりやすい)、アニメの烈は豪と同格の主人公として描かれたため、烈視点からも物語を見ることが可能になりました。むしろ烈は豪より視野が広い分、烈視点の方が物語(世界)の全体像を見渡すことができるように思います。

SGJC編では烈は2段階の成長を通してテーマを表現しています。
まず11話。ここで烈は、この先2年に渡ってレツゴーの柱となる「勝つことが全てじゃない、ゴール目指して走ることそのものを楽しむ」ことに気がつきます。
次に45話。ここでSGJC編のテーマである「大人を乗り越える」を痛快にやってのけてくれます。ここで烈と豪がそれぞれミニ四レーサーとして独立したことを受けてWGPはスタートします。

WGP編はSGJC編で培われた烈のミニ四レーサーとしてのありかたが、加戸監督の「主人公は変わらない」に守られてそのままレツゴー世界全体のテーマになっています。こうやって見ると、実は全てはSGJC編に端を発しているんですよね(95話のセイバーへの回帰もそれを表現しているのではないでしょうか)。だからWGPを真に理解するためには、まずはSGJC編を理解する必要があるんじゃないかと思っています。この流れの上に立てば、「烈=レツゴーのテーマ=ビクトリーズ」とひっかけてみたのも、自然な例えになるんじゃないかと思います。

ときには物語を楽しもう
マシンやキャラだけでも十分に楽しめるレツゴーですが、ときには「物語」を見ることもしてみませんか。そこに込められたテーマ、伝えられるメッセージにも目を向けてみませんか。このサイトでは烈視点からの物語とテーマを追っていますが、豪視点からでも同じことができると思います。

レツゴー日記が物語を読み解くためのアプローチの一例として少しでも参考になれば嬉しく思います。


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